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【山車】上宿第1場 高ヒット [地図表示]
2014-1-10 8:55 投稿者: admin (記事一覧) [ 2937hit ]

[2014]天女の羽衣

昔々、一人の若い漁師が浜辺を歩いていました。陽の光はまぶしく白い砂はキラキラと宝石のように輝き、海のむこうには富士のお山がくっきりと美しい姿を見せていました。
潮騒とそよ風の中を歩いていると、目の前の松の木に美しい虹色の衣がかかっていました。柔らかく七色に光っています。美しい布があるものかと若い漁師は我を忘れて見とれてしまいました。
顔をあげると、今しがた衣がかかっていた松の木のかたわらに、一人の女の人がたたずんでいるではありませんか。その姿を見た瞬間漁師は思わず息をのみました。神々しいまでに美しいその女の人は、海よりもすんだ瞳でじっとこちらを見つめていたのです。とっさに漁師はこれこそ話に聞いた天女に違いないと思いました。すると女の人は漁師の心がすぐわかるのか「はい私は天界に住む者でございます。このあたりのあまりの美しさにひかれて降りてきたのでございます。それは私の羽衣、どうぞお返しください。」と恥らうような面持(おもも)ちで語りました。
漁師はその鈴を鳴らすような美しい声にうっとり聞きほれましたが、手にした羽衣はまばゆいばかりに美しいので、とても返す気になれず、「いやだ。」とかぶりを横にふると、天女は、「羽衣がなくては天界に帰ることができませぬ。どうぞおかえしくださいませ。」と必死に頼みました。漁師はこれほどの宝物をむざむざと返すのはいやだと思いましたが、気高(けだか)い天女を苦しめてはいけないと考え、とうとう思い切って、羽衣を天女に返すことにしました。
天女はとても喜び、お礼にと“羽衣の舞”を舞ってみせました。やがて、天女は漁師に別れを告げると、羽衣をひるがえしながら、ゆっくりと天へ昇っていきました。
静岡県の三保の松原には、天女が舞い降りたといい伝えの松の木が、今もあります。
「古事記」より

[2013]八岐大蛇(やまたのおろち)戦いの場

天照大御神(あまてらすおおみかみ)は天石屋戸(あまのいやと)から出てきたものの、高天原(たかあまのはら)を混乱に陥れた須佐之男命(すさのをのみこと)は神々によって髪(かみ)や手足の爪を切られ、清めのお祓(はら)いを受けると高天原から追放されてしまう。
天を追われた須佐之男命は、その道中食物の女神である大宣都比売神(おおげつひめのかみ)と出会うと、すかさず食べ物を要求する。そこで大宣都比売神は、口や鼻、尻などから次々と美味な食材を取り出し、調理して須佐之男命をもてなそうとした。しかし、その様子を覗(のぞ)き見ていた須佐之男命は、わざと汚らわしい食事を用意しているものと誤解して激怒し、一瞬のうちに大宣都比売神を殺してしまった。
高天原を追放され出雲にやってきた須佐之男命は、泣いている老夫婦に出会う。話を聞くと、八つの頭を持つ大蛇、八岐大蛇(やまたのおろち)が娘の櫛名田比売(くしなだひめ)を食べに来るという。そこで須佐之男命は、大蛇退治を条件に娘との結婚を取り付けると、屋敷の周囲に生垣を作り、門に強い酒を入れた桶を置くように老夫婦に頼んだ。現れた大蛇が酒を飲んで寝込むと須佐之男命はすかさず斬り殺し櫛名田比売と約束通り結婚したのだった。
また日本書紀では須佐之男命が助けたのは奇稲田姫(くしなだひめ)となっている。

[2012]鵯越(ひよどりごえ)の逆落としの場

寿永(じゅえい)三年(1184)二月四日、鎌倉方は矢合わせを七日と定め源範頼(みなもとののりより)が大手軍五万六千余騎を、源義経が搦手(からめて)軍一万騎を率いて京を出発して摂津(せっつ)(兵庫県)へ下った。平氏は福原に陣営を置いてその外周一ノ谷口に強固な防御陣を築いて待ち構えていた。同日、搦手軍を率いて丹波路(たんばじ)を進む義経軍は、播磨国(はりまのくに)(兵庫県)三草山(みくさやま)の平資盛(たいらのすけもり)、有盛(ありもり)らの陣に夜襲を仕掛けて撃破する(三草山の戦い)。
前哨戦(ぜんしょうせん)に勝利した義経は敗走した資盛、有盛らを土肥実平(どひさねひら)に追撃させて山道を進撃した。二月六日、平氏一門へ後白河法皇(ごしらかわほうおう)からの使者が訪れ、和平を勧告し、源平は交戦しないよう命じた。平氏一門がこれを信用してしまい、警戒を緩めたことが一ノ谷の戦いの勝敗を決したとの説がある。迂回進撃を続ける鵯越で軍を二分して、安田義定(やすだよしさだ)、多田行綱(ただゆきつな)らに大半の兵を与えて通盛(みちもり)、教経(のりつね)の一万騎が守る夢野口へ向かわせる。
義経は僅(わず)か七十騎を率いて山中の難路を西へ転進した。一ノ谷裏手の断崖絶壁の上に立った義経は、戦機と見て坂を駆け下る決断をする。義経が「心して下れば馬を損なうことはない。」というと、佐原義連(さわらよしつら)が真っ先に駆け下った。義経らもこれに続く。大力の畠山重忠(はたけやましげただ)は、馬を損ねてはならじと馬を背負って岩場を駆け下った。

[2011]那須与一、扇の的を射るの場

今から八百年以上前のことです。
源氏に追われた平家は讃岐の屋島の浦に逃れました。その時、平家は船に扇を立てて、源氏がこの扇を射抜けるかどうかで戦いの勝敗を占おうとしました。波に揺れ動く一扇を一矢で射抜くことは難しいことです。けれども射抜かなければ源氏の名誉にかかわります。そこで源氏方の中から選ばれたのが那須与一です。
与一はまだ二十歳前後の若者ですが、弓の名手です。彼は馬を海に乗り入れ、しばらく目をつぶり、「南無八幡大菩薩、この矢をはずさせなさるな。」と心の中で祈り、弓に矢をつがえました。やがて渾身の力を込めてひょうと放つと、矢は過たず扇の的に命中しました。扇は夕日に照らされ、ひらひらと空に舞い上がり波の上に落ちました。
海の方では平家方が船のへりをたたいて褒め、陸の方では源氏方が箙(矢を入れて背負う武具)をたたいて喝采をあげました。与一は見事この大任を果たしました。
2011
2011
2012
2012
2013
2013
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