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【山車】中町第3場 高ヒット [地図表示]
2014-1-10 8:54 投稿者: admin (記事一覧) [ 2560hit ]

[2014]暴れん坊将軍 悪代官をこらしめるの場

徳川吉宗は、22歳で第5代紀州藩主に就任。その後享保元年(1716)、江戸幕府第7代将軍で徳川将軍家が絶えたため、御三家から養子として迎え入れられ第8代将軍に就任した。
享保の改革と呼ばれる財政再建を基本とした幕府改革を行い、窮乏(きゅうほう)していた江戸幕府の財政を安定させ、 この景気回復と質素(しっそ)倹約(けんやく)によって後世まで名君として見事に名を残した。
その他、幕府に対する要望や不満を人々に直訴させるための「目安箱」の設置により、庶民の意見を政治へ反映、小石川養生所を設置しての医療政策、「大岡越前守忠相」の江戸町奉行への大抜てきをはじめとする積極的な人材の登用、さらに将軍として初めて「御庭番」(忍者)を創設し、諸藩や反逆者の取り締まり等を行った。
また、吉宗はドラマ「暴れん坊将軍」の主人公で、お茶の間にもおなじみの将軍である。なお、身長180センチ、体重90キロを超える大男で、力持ちだったといわれ、力士と対戦して勝ってしまった話や、狩りの最中、手負いの大猪が突っ込んできたので、鉄砲の台尻で一撃のもと打ちのめした話等の逸話もあり、まさにドラマでの吉宗像と一致する人物であったようである。

[2013]源義経 壇ノ浦八艘跳びの場

平安時代の末期、元暦(げんりゃく)二年(1185)三月二十四日、長門国赤間関(あかまがせき)壇ノ浦(現山口県下関市)で行われた海戦で、二十五年間にわたり栄華を誇った平家が滅亡に至った治承(じしょう)・寿(じゅ)永(えい)の乱の最後の戦いである。
源氏軍は海の大将を源義経として八百四十艘の船団を組み、源氏軍の陸の大将源範頼(みなもとのりより)が三万の兵をもって陸地に布陣して平氏軍の退路を塞(ふさ)ぎ、岸から遠矢を射かけて義経を支援した。
平氏軍の大将平知盛(たいらのとももり)が率いる五百艘の船団とは十二時頃より激しい戦闘に入った。関門海峡は潮の流れの変化が激しく、水軍の運用に長けた平氏軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗ってさんざんに矢を射かけ源氏軍に攻撃を仕掛けた。これに対して潮の流れの速い海戦に不慣れな板東武者(ばんとうむしゃ)の源氏軍は、満珠島(まんじゅしま)・干珠島(かんじゅしま)の辺りまで追いやられ、勢いに乗った平氏軍は大将義経を討ち取ろうと攻めかかった。
やがて潮の流れが反転して赤間関方向に流れが変わり、戦機が一転して源氏軍に有利に働き平氏軍を赤間関まで追いつめた。二位尼(にいのあま)は平家もこれまでと、安徳(あんとく)天皇と共に入水して果てたのである。これを見た平教経(のりつね)は、敵の大将義経を道連れにと小長刀を振り上げ斬りかかったが、義経はゆらりと跳び上がると船から船へと跳び移り、八艘の彼方に跳び去ってしまった。これが世にいう義経の八艘跳びである。

[2012]「泉小太郎伝説」(龍の子太郎)の場

「泉小太郎伝説」は信州松本平に伝わる壮大な郷土創生説話(そうせいせつわ)で、そのスケールの大きさから秋田県「八郎伝説」に比肩(ひけん)するといわれています。また、松谷みよ子作『龍の子太郎』の原話となったことでも有名です。
大昔、松本平は広大な湖で、人々は湖畔の狭い農地で細々と暮らしていた。小太郎は鉢伏山(はちふせやま)にて誕生、放光寺山(ほうこうじさん)(松本市城山(じょうやま))の辺りで成長して日光泉小太郎と名乗った。成長の後、育ててくれたおばあさんに両親のことを尋(たず)ねると、父は湖に棲(す)む大日如来(だいにちにょらい)の化身(けしん)である白龍(はくりゅう)(安曇族(あずみぞく)の主(ぬし))、母は諏訪大明神(すわだいみょうじん)の化身である犀龍(さいりゅう)(諏訪族(すわぞく)の主)であることが初めて明かされた。小太郎は両親を探し求め、尾入沢(おいりさわ)(豊科町(とよしなまち)高家(たきべ))辺りで母である犀龍と会うことができた。母子は湖を干(ほ)して人々の苦難を救うことを決意、小太郎は母龍に乗って生坂村山(いくさかむらさん)清路(せいじ)付近にあった巨大な岩山を突き崩し、湖水を犀川から日本海に落としてこの地を平野に変え、広大で豊かな農地を開いた。こうして、犀によって開かれた川であることから「犀川」という。
このように、伝説では小太郎が乗った母龍は犀龍で、その姿は現在のサイに似ているのですが、松谷みよ子作『龍の子太郎』のイメージを採用して「龍」の姿としました。

[2011]牛若丸、鞍馬山で天狗から武技を習う場

平治元年(1159)源義経は、源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸といいました。
この年に「平治の乱」が起こり、義朝は平清盛に敗れて殺されてしまいます。
都に居た牛若の兄今若、乙若は、母常盤御前の平清盛への嘆願によって助けられましたが、遠くの寺に預けられてしまいます。乳飲子の牛若を連れ、常盤は清盛に仕えることになりました。
牛若が七歳になると、「さびしくなったら、この笛を吹きなさい。」と母から渡された横笛を胸に、鞍馬寺に預けられてしまいました。牛若は和尚さんの言い付けを守り、一生懸命に学問に励みました。
牛若が十一歳になったある日、知らないお坊さんが訪ねて来て、牛若の父が源氏の総大将源義朝であること。平治の乱に敗れて、平清盛に殺されたことなどを聞かされ、「父の無念を晴らしたい。」と幼心に誓いました。
以来、昼は書を読み、夜はお坊さんに教えられた鞍馬山の奥の僧正ヶ谷に行き、天狗から武技を習ったので、身の軽さ、剣の鋭さはおどろくほどに上達していきました。
鞍馬寺の東光坊では、「これが平清盛に知られては、大変なことになる。」と思い、牛若に出家をすすめましたが、毎夜、天狗を相手に武技に励むという場です。
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