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【山車】下町・藤見町第4場 高ヒット [地図表示]
2014-1-10 8:54 投稿者: admin (記事一覧) [ 2624hit ]

[2014]佐倉惣五郎 甚兵衛渡しの場

江戸時代初期、下総国印旛郡公津村の名主であった惣五郎は、打ち続く凶作と重い年貢に苦しむ農民たちを救おうと、佐倉藩内の名主たちとともに代官屋敷や藩重役に願い出たが、取り上げられなかった。
そこで、惣五郎たちは、大挙して江戸へ上り領主堀田正信の江戸上屋敷へ強訴したり、将軍家側用人久世大和守に駕籠訴をしたりと八方手を尽くして年貢の軽減を願ったが、聞き入れられなかった。
ついに惣五郎は、将軍への直訴を決意、家族が咎められないようにと国元の妻子に別れを告げに戻って来た。雪の降りしきる夜、別れを惜しむ家族を振り切り再び江戸へ上るため密かにこの渡し場へ来た惣五郎。しかし、厳しい詮議のもと、印旛沼の渡し舟は、鎖でつながれていた。この時、渡し守甚兵衛は、禁制を犯して鎖を断ち切り、船を出して惣五郎を送り出した。
江戸へ出た惣五郎は、上野寛永寺に参拝の四代将軍徳川家綱に直訴状を差し出した。幸い願いは聞きとどけられ、領民は塗炭の苦しみから救われた。しかし、当時直訴は大罪であり、惣五郎は佐倉藩に引き渡され、4人の子どもとともに、処刑されてしまった。領民たちは、惣五郎親子を大切に弔い、埋葬された塚には、350年余を経た今日でも線香が途絶えたことはないという。
惣五郎を送り出した渡し守の甚兵衛は、惣五郎を送った後、老いて囚われの身となるよりもと、凍える印旛沼に身を投じた。以後、だれ言うともなくこの渡しを「甚兵衛渡し」と呼ぶようになった。

[2013]木曽義仲 出陣の場

以仁王(もちひとおう)から平家追討の令旨(りょうじ)を受け木曽義仲が巴(ともえ)を伴って挙兵したのは、治承四年(1180)、義仲26歳のときとされる。当時義仲は、父・義賢(よしたか)が源義朝(よしとも)・義平(よしひら)親子との東国での勢力争いに敗れたために、木曽に隠棲(いんせい)していた。その義仲につき従う兵力は、決して多くはなかった。兵力増強のための根拠地としたのが、依田次郎実信(さねのぶ)の居城、依田城であった。東信濃の源氏を慕(した)う豪族たちの招きもあり、父の遺領(いりょう)と位置付けていた関東への進出をめざし、平家打倒の上洛(じょうらく)経路を北陸道と見据えたためとされている。
依田城に入ったときには総勢80名との記録もあるが、多くの豪族が参集した。「玉葉(ぎょくよう)」、「源平(げんぺい)盛衰記(せいすいき)」、「平家物語」などの歴史書には、信濃国全域から参陣した記録が残されている。信濃の武士のこれほどの大同団結は、歴史上どの争乱期にもないことである。挙兵・出陣に際し義仲は、岩谷堂(いわやどう)観音(かんのん)で戦勝祈願をしたと伝えられている。
その後、義仲は横田河原の合戦の勝利で越後を抑え、倶(く)利(り)伽羅(から)峠(とうげ)の合戦での大勝など、平家を追い落とし、一気に都へ攻め上った。京都での義仲は、朝廷との交渉、洛内の治安維持や西国での平家との戦いなど、苦闘の連続であった。征夷(せいい)大将軍(たいしょうぐん)を任ぜられ、旭(あさひ)将軍と称せられたが、後白河(ごしらかわ)法皇(ほうおう)の命を受けた頼朝軍との戦いに敗れ、近江国粟津(あわづ)で討ち死にをした。最期を迎えた義仲には、野山を駆け巡り御嶽(おんたけ)・浅間を望んだ信州の大地が過ぎったのではないだろうか。義仲の最期まで伴にした巴御前は、義仲から、「信濃へ下り、われの最期の有様を後世に伝えよ。」と諭(さと)され、落ち延びた。岩谷堂観音の付近に庵(いおり)を構え、1年にわたり菩提を弔ったと伝えられている。

[2012]「古町立岩 和紙の里」の場

「立岩紙」といわれる立岩の紙漉(す)きの沿革(えんかく)は詳(つまび)らかではないが、記述として残されている最古のものは寛政(かんせい)元年(1789)の両角文書である。当時、紙漉きが盛んな依田窪地方においても特に立岩が盛んであったことが記(しる)されており、三百年近い伝統があると推察されている。
江戸期には農家の副業として重要な産業に位置づけられていた。幕末期においては百軒近くで紙漉きが行われており、明治期以降も中折紙の生産を中心に盛んに営まれてきた。
明治期後半に至って周辺の村々での紙漉き業が殆どなくなってくるなかで、大正・昭和期にかけて製造方法や生産者組織の改革をすることで、四十年間余り生産を維持し、上小地方の特産品としての和紙(障子紙)の主産地となっていった。
多くの先達(せんだつ)の努力と創意によって、戦後まで引き続がれてきたのが「立岩紙」である。

[2011]蒙古襲来!!有坂弥二郎能仲 奮戦の場

「元寇」いわゆる蒙古襲来とは、鎌倉時代後期、当時アジアから東欧に至る一帯を支配した元による1274年の「文永の役」、1281年の「弘安の役」という二度に渡る日本への侵略のことである。
相手は、当時世界最強を誇る元軍であったが、鎌倉武士はよく戦った。
初戦の「文永の役」こそ、戦闘上のしきたりの違いや集団戦法などに戸惑ったが、「弘安の役」では、戦いの経験を活かして、元軍を撃退した。その時の備えの第一が、今も残る防塁の建設であった。そして防塁の後ろから改良した弓矢を射て上陸を妨げ、夜討ちで対抗した。元軍は兵糧攻めにされて消耗し、暴風雨の追い打ちもかかり壊滅した。
さて、元寇の様子が記録されている「蒙古襲来絵詞」には、現長和町古町有坂を在所としていた有坂弥二郎能仲という御家人がこの戦に参戦していたという記録が残っている。
能仲もまた国を守るために奮戦したのであろう。家族と別れ、ふるさと信州から遠く離れた九州の地で戦う能仲。その心中を推しはか量れる資料は、今に伝わっていない。
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